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コラム連載 ・ 視鬼

【視鬼のコラム】ポイント還元を追い、一円を拾って一万を取りこぼす者よ

安さ集めに費やす刻が、そなたの実入りを痩せさせておる

コラム連載
視鬼畏怖・警告ろうそくの火のむこうから、目をそらしたくなる本質を鋭く突く警告の語り手。主な発信:TikTok ・ プロフィールを見る →

視鬼(しき)じゃ。今日は、そなたがきっと“得意”にしておるであろう、細かな得の拾い方の話をする。――十円安い隣町の店まで、わざわざ足をのばす。ポイントが五倍になる日を手帳に控え、その日を待って、まとめて買う。安売りの札を見れば、要りもせぬのに、つい籠へ入れる。「一円でも安く」「一点でも多く貯める」。そなたは、そう自分に言い聞かせ、日々、こまごまとした得を、丹念に拾うて歩いておらぬか。悪いこととは言わぬ。むしろ、まめな性分じゃ。じゃがな、私にはこう視える。そなたは、足元に落ちた一円玉を拾うのに夢中で、その屈んでおる間に、頭の上を、一万の巡りが、すうっと通り過ぎておる――と。今日は、その“拾う手”と“取りこぼす手”の話を、一枚ずつ剥がしにいく。耳が痛いのは承知の上。じゃが、痛むところにこそ、実入りを痩せさせておる、本当の原因が隠れておるのじゃ。

この記事のポイント・ポイントや小さな値引きを追いすぎる人へ、その落とし穴を鋭く突くコラムです
・拾う一円ばかりを見て、そこに費やす「刻(とき)」の値打ちを、そなたは量っていません
・厳しい言葉のなかに、救いを込めています。倹約そのものを否定はしません
・本コラムは縁起・言い伝えをもとにした読みものです

視鬼畏怖・警告

今日は、そなたが“得をしておる”と信じて疑わぬ、ある習いの話をする。倹約は、美徳じゃ。それは疑わぬ。じゃがな、倹約のつもりでやっておることが、じつは、もっと大きなものを取りこぼす“損”に化けておるとしたら――聞かずに済ませられるか。よう聞いておくれ。

拾う一円は数えるのに、費やす“刻”は数えぬ

まず、そなたが決して勘定に入れておらぬものから突きつけよう。――“刻(とき)”じゃ。十円安い店を求めて、片道二十分。往復で四十分。品を選び、列に並び、帰り着くまでを合わせれば、たやすく小一時間が消える。そなたは、その一時間を、勘定書のどこにも書いておらぬ。

そなたが数えておるのは、拾うた十円、貯めた数十点。目に見え、手にとれる“得”ばかりよ。ところが、それを拾うために差し出した一時間は、形がないゆえに、まるで“ただ”のように扱われる。拾うた一円は、几帳面に数えるのに、費やした一時間は、一度も数えぬ――ここに、そなたの勘定の、大きな穴がある。

刻というものは、金以上に、二度と戻らぬものじゃ。使うた銭は、また稼げば取り戻せる。じゃが、過ぎた一時間は、天地がひっくり返っても、戻っては来ぬ。その、いちばん戻らぬものを、そなたは十円のために、平気で差し出しておる。この“刻を勘定に入れぬ”癖こそ、今日、いちばん深く突いておきたいところじゃ。じつはこの癖、「時間がない」が口ぐせの者と、根はひとつよ。それは「時間がない」と言う口が、そなたから金も遠ざけておるで、たっぷり袖を引いた。あわせて聞け。」

見覚えはないか――五倍の日を待って、要らぬものを買う

少し、そなたの日々を覗かせてもらおう。――手帳に、小さな印がついておる。「この日、ポイント五倍」。そなたは、その日を心待ちにしておる。そして、その日が来る。せっかくの五倍じゃ、少しでも多く貯めねば損――そう思うて、そなたは、いつもより多く、籠へ品を入れる。今すぐ要らぬものまで、「どうせいつか使うし、今なら得だし」と、つい手が伸びる。

帰り道、そなたの心は、満ち足りておる。「今日はたくさん貯まった」。……見覚えは、ないか。ここで、よう考えてみよ。そなたが今日“得た”のは、五倍のポイントじゃ。じゃが、そなたが今日“払った”のは、五倍を得るために余分に買いこんだ、要らぬ品々の代金じゃ。数十点貯めるために、何百円、何千円と、余計に散らしておらぬか。

これは、得ではない。「得をしよう」という気持ちに背を押されて、かえって多く使わされておるのじゃ。売る側は、これをよう心得ておる。「五倍」「本日限り」「今だけ」――こうした札は、そなたの“得したい心”を、そっと突いてくる。そして、その心が疼いたとき、人の財布の紐は、ゆるむ。要らぬものを、得の顔をした損として、掴まされる。私が案じておるのは、この“得の衣を着た散財”よ。要らぬところで散らす癖については、使うべき所でケチり、どうでもよい所で散らすでも、みっちり語った。」

「一円を惜しむ心」が、大きな一手を見えなくする

もうひとつ、恐ろしいことを教えよう。細かな得を拾う癖が骨の髄まで染みつくと、そなたの心は、いつしか“小さな金勘定”ばかりに向くようになる。そして、その分だけ、“大きな金勘定”が、まるで視えなくなっていく。

十円、二十円の差に、心を砕く。その神経の細やかさは、たいしたものじゃ。じゃがな、その同じ心が、「どうすればひと月の実入りそのものを、一万増やせるか」という、もっと大きな問いには、なぜか向かわぬ。目の前の一円を惜しむ思いが、頭のなかを一杯にして、遠くの一万を考える“余白”を、奪うてしまうのじゃ。一円を拾う屈んだ姿勢のままでは、頭の上を通る一万は、決して見上げられぬ

金運の巡りというものは、古来「小さきに縛られず、大きな流れに目を向ける者の背を押す」と語り継がれておる。目先の得に心を奪われ、視野が足元だけに縮こまった者のところへは、大きな巡りは、たとえ通りかかっても、気づかれぬまま過ぎていく。――そなたに問う。この一年、そなたが“節約”に費やした心と刻を、もし“いかに実入りを増やすか”へ振り向けておったら、今ごろ、いくらの差が生まれておったであろうな。」

「損をしたくない」が、そなたを縛る本当の縄じゃ

ここで、そなたの胸の奥を、もう一枚めくろう。なぜ、そこまで細かな得にこだわるのか。その根を探れば、たいてい行き着くのは、“得をしたい”ではない。“損をしたくない”という、もっと強い思いじゃ。

人の心は、得る喜びより、失う痛みのほうを、はるかに大きく感じるようにできておる。十円得た喜びより、十円損した悔しさのほうが、ずっと尾を引く。だからそなたは、「あそこで買えば十円安かったのに」という、あの小さな悔しさを避けたい一心で、十円のために刻を差し出す。悔しさから逃げるために、走り回っておるのじゃ。

これは、弱さではない。人の心の、当たり前の働きよ。じゃがな、この“損したくない”に振り回されておるかぎり、そなたはいつまでも、金に“追われる側”のままじゃ。十円損せぬために右往左往する者と、一万得るために腰を据える者――同じ一日を生きても、向いておる先が、まるで違う。前者は、こぼれぬように、こぼれぬように、と縮こまる。後者は、どうすれば器を大きくできるか、と手を広げる。「損をせぬこと」を追う心を、少しでよいから「価値を生むこと」へ向け直す――そこから、そなたの巡りは、向きを変えはじめる。」

拾う値打ちのある一円と、拾うと損する一円がある

ここで、念を押しておく。私は、倹約を捨てよと言うておるのではない。一円を拾うなと言うておるのでもない。拾う値打ちのある一円は、確かにある。言いたいのは、ただ一つ――拾う前に、それに屈む“刻”の値打ちと、天秤にかけよ、ということじゃ。

たとえば、いつもの帰り道の途中に、たまたま安い店があるなら、拾えばよい。刻を、ほとんど差し出しておらぬからな。あるいは、大きな買い物のとき、少し調べて幾らか安く手に入るなら、その手間には値打ちがある。額が大きいゆえ、拾えるものも大きいからじゃ。――こういう一円は、迷わず拾え。

じゃが、十円のために三十分を差し出すなら、それは拾う損じゃ。要らぬものを五倍の日に買いこむなら、それも拾う損じゃ。目安は、こう覚えておけ。「この得を拾うのに差し出す刻を、もし別のことに使うたら、これより大きなものを生めぬか」と、一度問う。生めるなら、拾うな。生めぬなら、拾え。この一問を挟むだけで、そなたの“得”は、選び抜かれた良い得ばかりになる。安さそのものに飛びつく癖の恐ろしさは、「安い」に飛びつく者は、高いものを一生掴めぬで、骨の髄まで語った。あわせて読め。」

“貯める”ことが目的になると、器は大きくならぬ

そなたに、もうひとつ問いたい。そなたは、ポイントや小銭を、何のために貯めておる。――そう問われて、すぐに答えが出ぬなら、それは危うい兆しじゃ。“貯めること”そのものが、いつのまにか目的にすり替わっておる。

貯めるのは、本来、何かを叶えるための手立てにすぎぬ。ところが、拾う喜びに慣れてしまうと、貯めた数字が増えること自体が、うれしくなる。使う当てもないのに、ただ増やす。この状態は、金運の巡りから見れば、じつは“詰まり”じゃ。水は、流れてこそ澄み、巡ってこそ新しいものを運ぶ。ひたすら溜めこみ、動かさぬ水は、いずれ淀む。貯めることに心を奪われた財布は、“流れ”を忘れ、大きく育つ機を逃す

金運の巡りは、古来「気持ちよく巡らせる者のところへ、また巡ってくる」と語り継がれておる。握って離さぬ者ではなく、良いところに気持ちよく使い、また稼ぐ――その循環を回せる者の背を、そっと押すという。断じて保証はせぬがな。じゃが、貯めることに縮こまり、大きく巡らせることを忘れた手からは、次の一巡りも、静かに遠ざかる。この“渇いて溜めこむ心”の話は、「もっと、もっと」と渇く者は、いくら手にしても満たされぬとも、深いところでつながっておる。」

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そなたの“刻”に、値札を貼ってみよ

では、どうする。難しいことは言わぬ。まず、そなたの“刻”に、一度、値札を貼ってみよ。――そなたの一時間には、いくらの値打ちがあるか。人によって違うてよい。じゃが、仮にでも、一つ数を決めてみる。「わしの一時間は、まあ、これくらいの値打ちはあろう」とな。

この値札を、一度貼っておくと、世界の見え方が変わる。十円のために三十分を差し出す――それが、いかに割の合わぬ取引か、はっきり視えてくる。「三十分あれば、わしはもっと値打ちのあることに使えたはずじゃ」と、自然に思えるようになる。刻に値札を貼った者は、二度と、刻を“ただ”では差し出さなくなる。

そして、ここが肝心じゃ。浮いた刻を、ぼんやり過ごしてしまうのでは、意味がない。安さ集めに使うておった刻を、“実入りを増やす一手”へ、少しでよいから振り向けよ。学ぶことでもよい。腕を磨くことでもよい。人と会うことでもよい。「損せぬための刻」を「価値を生むための刻」へ移し替える――この一つの移し替えが、そなたの実入りの器を、じわりと大きくしていく。金運とは、まずもって、この“刻の使い先”の話なのじゃ。」

今日の一手――「一つ」だけ、追うのをやめてみよ

ここまで聞いて、明日から倹約を全部やめる、などと極端に走るな。それでは続かぬし、良い倹約まで捨ててしまう。今日、そなたがやることは、たった一つでよい。

――そなたが日ごろ追いかけておる「細かな得」を、一つだけ思い浮かべよ。十円安い店。五倍の日。安売りの札。何でもよい。そして、その一つだけ、今日から「追うのをやめる」と決めよ。そのかわり、そこで浮くはずだった刻を、今日、たった十分でよいから「どうすれば、ひと月の実入りを増やせるか」を、静かに考えることに使うてみよ。答えは出ずともよい。“大きな問い”に、心を一度向けること――それが、今日の一手じゃ。

この「一つやめて、大きな問いに向ける」には、額を超えた意味がある。そなたは、生まれて初めて、足元の一円から目を上げて、頭の上を通る一万を、見上げることになる。その視線の高さこそが、金運の巡りが、いちばん好むものじゃ。屈んだ姿勢からは、決して掴めなんだものが、背を伸ばした者の手には、ふっと近づいてくる。大きな元手はいらぬ。今日、一つ、追うのをやめる。それだけで、そなたの目線は、一段、高くなる。」

自分が“何に釣られやすいか”を知れば、散らさぬ

一つやめたら、次は「なぜ私は、それを追わずにいられなかったのか」を、静かに省みよ。人が細かな得に釣られる急所は、みな違う。「損したくない」が人一倍強い者。「得した」という達成の心地よさに酔う者。数字が増えるのを見るのが、ただ好きな者――急所が違えば、手綱の握り方も違うてくる。

金運の社の金運タイプ診断は、そなたが金とどう向き合いやすいか、その傾向を映す鏡じゃ。自分の急所を知れば、「だから私は、あの手の札に、いつも足を止めておったのか」と腑に落ちる。責めるためではない。次に釣られそうになったとき、「ああ、これがわしの急所じゃな」と、一歩引いて見られるようになるためじゃ。

そして、大きな買い物を控えた日などは、朝いちばんに今日の金運をのぞいて、「今日は、目先の得に釣られず、大きな目で選ぶ」と、自分に杭を打つのもよい。占いや吉日は、当てるための道具ではない。「今日は、視線を高く保つ」と、その日ひとつ、自分に約束するための杭じゃ。すがるためではなく、目線を上げる合図に使え。迷うたときはおみくじを一度引いて、出た言葉を、今日の心構えの合言葉にするのも一興じゃ。」

わしの覚え書き――三つだけ、持ち帰れ

今日の話は、これで終いじゃ。じゃが、読んで頷いて終わりでは、明日もそなたは、十円のために走り出す。後で立ち返れるよう、わしの言葉を、三つだけ、短く括って渡しておく。財布のそばにでも、書き写しておけ。

一、拾う一円だけでなく、屈む“刻”も勘定に入れよ。――刻は、金より戻らぬ。十円のために一時間を差し出すのは、拾う損じゃ。
二、拾う前に、一問挟め。「この刻で、これより大きなものを生めぬか」。――生めるなら拾うな、生めぬなら拾え。良い得だけを、選び抜け。
三、「損せぬ刻」を「価値を生む刻」へ、一つ移し替えよ。――足元の一円から目を上げた者の手にだけ、頭上の一万は近づく。

この三つを、買い物のたび思い出せる者は、二度と“得の衣を着た損”を掴まされぬ。目線を高く保つ者のところへこそ、大きな巡りは、そっと近づく。――覚えておけ。」

結びに――そなたの目線は、足元か、頭上か

最後に、この読みものを開いてくれたそなたへ、問いをひとつ残す。難しいことは何もいらぬ。今日一日、買い物をするたび、こう自分に問うてみよ。――「私は今、足元の一円を見ておるのか。それとも、頭上の一万を見ておるのか」とな。

その目線の高さが、そなたの一年後を、静かに決めていく。厳しいようだが、これは救いじゃ。なぜなら、目線の高さは、生まれつきのものではない。今日から、いくらでも変えられるからじゃ。倹約の心はそのままでよい。ただ、その細やかな神経の、ほんの一部でよいから、「損せぬこと」から「価値を生むこと」へ、向け直す。それだけで、そなたの実入りの器は、ゆっくりと大きくなりはじめる。

私は、甘い言葉は言わぬ。じゃが、屈んだまま顔を上げられずにおる者を、黙って見過ごしはせぬ。今、そなたの袖を引いておるのは、そのためよ。次に耳の痛い話を持ってくるのは、“学び”を言い訳に動かずにおる者へ――「自己投資だ」と言い訳し、教材とセミナーを買い続けるそなたへのところじゃ。あわせて、使わぬものに払いつづける者への話、「解約するのがめんどうで」使わぬサブスクに毎月払い続けるそなたへも、そなたの財布の“抜け穴”を照らしてくれよう。逃げたくなったら、いつでも戻ってこい。何度でも、袖を引いてやる。――なお、ここで語ったのは古(いにしえ)からの言い伝えと心の話であって、実入りの増減を請け合うものではない。器を大きくする手綱は、いつでもそなた自身の手にあると心得よ。」

※本記事は占い・風水・古くからの言い伝えを、娯楽の範囲でご紹介するものです。記載の内容は効果や結果を保証するものではありません。宝くじ等の当選を保証するものではなく、ゲン担ぎ・縁起としてお楽しみください。暦(吉日)は流派・暦により差が出る場合があるため、実際の日付は最新の暦でご確認ください。健康・体調に関する判断は専門家にご相談ください。一部にプロモーション(PR)を含みます。